2024年09月03日更新
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宗教法人 浄土宗浄念寺 対談取材記事

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より多くの方に信仰の素晴らしさを伝えたい

宗教法人 浄土宗浄念寺

住職 高橋 清海

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─略歴

【足跡】 地元出身。『浄念寺』住職の末っ子として生を受ける。東京にて教科書の出版会社に勤務するも、寺を継いだ長兄の急逝により、18代目住職に就任。それと同時に高校教諭、幼稚園園長を兼務し、定年まで勤め上げた。現在も『知恩院』長老・布教師会幹事などを務める。


豊かな自然に囲まれる、気仙沼市唯一の浄土宗寺院『浄念寺』。一説では開闢より700年余りの歴史を有する名刹だ。そんな同寺院を現在任されているのが、18代目・高橋住職。東日本大震災後、地域住民の心の支えであり続けた同寺院を、本日は渡嘉敷勝男氏が訪問。住職に詳しいお話を伺った。

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─対談

不思議な縁に導かれ
古刹の十八代目住職に就任

渡嘉敷 まずは『浄念寺』さんの歴史からお聞かせ下さい。

高橋 起源には諸説あり、その中で最も有力なのは、承元年間に天台宗の寺院『海蔵寺』として開闢されたという説です。そして1625年に浄土宗に改宗し、寺号も現在の『浄念寺』に改められました。

渡嘉敷 長い歴史をお持ちなのですね。

高橋 ええ。ですが途中で跡継ぎが途絶えてしまったそうで、盛岡にある寺院の息子であった父が縁あってこちらにやってきたと聞いています。

渡嘉敷 では、高橋住職はこちらのお寺でお生まれになったのですか。

高橋 そうです。けれど9人兄弟の末っ子だったので、寺は兄が継ぐことになっていました。私自身は、一応大学で宗教学を専攻し、僧侶の資格も取得しましたが、卒業後は東京で教科書の出版会社に就職したんですよ。ところが2年ほど勤めたころに、当寺院を継いでいた兄が42歳という若さで急逝しましてね……。それで急遽、私が後継することとなったのです。

渡嘉敷 当時はおいくつだったのですか。

高橋 29歳でした。あまりに突然のことで、最初は戸惑うことばかりでしたね。けれど幸い母が健在でしたので、寺のお勤めについてや檀家さんとのお付き合いについてなどを色々と教わることができました。私一人では何もできなかったでしょうから、本当に助かりましたね。

渡嘉敷 住職としてのお仕事は、いかがでしたか。

高橋 ご存じのように寺の一日は早く、朝6時に起きてお勤めを行います。さらに私は住職に就任してより県立高校の教員と幼稚園の園長も務めるようになったので、毎日目が回るような忙しさでしたね。寺の仕事は檀家さん回りなど昼間に集中するので、学校の方は定時制の授業を担当させてもらうことにして、昼は寺、夜は学校という風に切り替えて過ごしていました。

渡嘉敷 それはさぞお忙しかったでしょう。檀家さんの数というと?

高橋 当寺院は気仙沼市で唯一の浄土宗寺院でして、地元の方を中心に800軒ほどの檀家さんがいらっしゃいます。この辺りの寺院はどこでも500~600軒ぐらいの檀家さんを抱えていますから、全国的に見ても信仰心の篤い地域だと思いますね。檀家さんのもとには法事などがあればお伺いしますし、お盆の時には1軒1軒回ってお参りさせていただいているんですよ。

渡嘉敷 そうした活動が、檀家さんとの距離を縮めているのでしょうね。

心に苦しみを抱える人々に
お釈迦様の教えを伝える

渡嘉敷 お話は変わりますが、東日本大震災の被害状況はいかがでしたか。

高橋 幸いお寺も家族も無事でした。けれど、多くの檀家さんや地域の方々が被災されましたね。震災後はおよそ240名の方々が当寺院に避難されてきて、3カ月間ほど本堂に寝泊まりしてもらいました。そうして少しずつ別の避難所に移動されていく方が多かったのですが、「お寺の方が居心地が良い」と言って下さる方も少なくなく、同年6月11日の時点でも本堂には50名以上の方が残られていたんですよ。

渡嘉敷 震災時、こちらの存在は地域の皆さんを随分勇気づけたでしょうね。

高橋 頼りにしていただけるなら、私共としても嬉しいですね。この震災によって多くの方が命や財産、思い出の品などを失ってしまいました。被災したこと自体は悲しいことには違いありませんが、しかし私は、今回の災害は人間に対して教訓も残してくれたように思うのです。

渡嘉敷 それはどのような?

高橋 震災が起こるまでは、人間には驕りがあったと思うのです。その象徴が福島の原発ではないでしょうか。あそこには人類史上最高の技術が結集されていましたが、皆さん今回のことは「想定外」だったと語られる。科学技術や知恵だけでは、地上の現象を完全にコントロールすることはできない。つまり、人間と自然は共生していくものである──震災は人類の生き方を見つめ直す機会となったのではないかと思いますね。

渡嘉敷 そうかもしれません。檀家さんにもそのようなお話をされるのですか。

高橋 そうですね。お釈迦様は人に分け与え、皆で仲良く過ごすことの大切さを説いておられます。皆様のお話にじっくりと耳を傾けた上で、教えに則ったお話をさせていただくこともありますね。特に、上手く自分で自分を励ませないという方には是非とも当寺院を訪れていただきたい。お話をするだけでも気が楽になるでしょうし、私共の力が及ばないところは阿弥陀様にお願いして救っていただくことができますから。それが信仰であり、信仰することで人心は守られ、導かれていくのだとお伝えしています。

渡嘉敷 では最後に、これからの展望を。

高橋 当寺院は戦前、夏休みや春休みに託児所を設け、戦後は幼稚園や保育所を運営するなどして地域の子どもたちと関わってきました。今後もそういった子どもたちとのふれあいを大切にしながら、宗教教育を行っていきたいですね。そして1人でも多くの方に信仰の素晴らしさを伝えていきたいと思います。

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─取材記事写真

脈々と受け継がれてきた仏の教えを現代に伝える

▼承元年間、現・気仙沼近隣は葛西氏によって治められていたという。その葛西氏の家臣で忍館城主の千葉信濃守信定公の菩提寺として開かれたのが『東瀧山 海蔵寺』だ。当初は天台宗であったが、天正の乱で豊臣秀吉により葛西氏が滅ぼされ、その臣下である千葉氏も亡くなると、阿弥陀堂を残すのみの荒寺となってしまったそうだ。しかし、千葉氏の子孫は小野寺と名を変え、代々この寺の修復を行っていた。そして1625年、小野寺彦右衛門、仁兵衛、彦十郎の三兄弟が私財を投じ、陸前高田市にある『正覚寺』寿印専誉上人を招いて中興開山したのだ。この時に浄土宗へと改宗し、寺号を『華光院 浄念寺』に改めたのだとか。その後、三世・郭誉和尚の時に鎌倉の浄土宗大本山『光明寺』から乗誉上人を招き、その教えを受けたことから『光明寺』を本山とするように。そうして現在は18代目高橋住職が歴史ある寺院を受け継ぎ、先人がつなげてきた仏の教えを地域の人々に伝えている。

対談を終えて

「「誠実であること」を大切にされている高橋住職。人は、ついごまかしたり嘘をついてしまうことがありますよね。けれど住職は、お釈迦様の教え通りに正直に生きるよう努めていらっしゃる。だからこそ多くの方に慕われるのでしょうね。」(渡嘉敷 勝男さん・談)

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─会社概要

名  称

宗教法人 浄土宗浄念寺

住  所

宮城県気仙沼市東中才372

代表者名

住職 高橋 清海

U R L

http://www.jyounenji.com

掲載誌

リーダーズ・アイ  2012年7月号

※代表者名の“高”は正しくは“はしご高”です

本記事の内容は、月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ』の取材に基づいています。本記事及び掲載企業に関する紹介記事の著作権は国際通信社グループに帰属し、記事、画像等の無断転載を固くお断りします。