デッキプレート工事に誇りと自信を持ち、
業界の地位向上を目指す
「デッキプレートの敷き込みを終え、光り輝く床を見た時に天職だと実感しました」
かつては金髪でハードロックバンドのボーカルをしていた堤社長。
音楽が生活の中心で、その片手間に仕事をしていた社長が変わったのは、『及川鉄工』に入社して1~2年が経ったころだった。
重いものでは1枚100キロにもなるデッキプレートを敷き込む仕事。
重労働で苦痛に思う時もあったが、敷き込みを終えると、建物に初めて平面が生まれ、鋼製の床に日差しが反射して美しく輝いた。
それを見た瞬間、これが天職だと感じ、仕事に没頭するようになった社長。
以来1枚1枚に熱き職人魂を込めて、デッキプレートを敷き続けている。
【足跡】 北海道空知郡出身。高校時代に札幌に移り、卒業後は大手ミシンメーカーでの勤務を経て、1988年に『及川鉄工』に入社。当初はバンド活動の傍ら仕事をしていたが、徐々に仕事にウエイトを置くように。2012年に三代目として社長に就任し、現在に至る。
創業から70年近く、会社設立から50年以上になる『及川鉄工』。当初は金物・鉄骨製作からスタートし、1979年ごろから、北海道ではまだ珍しかったデッキプレート施工専門業者として歩み始めた。以来、全国各地での実績を誇っている。本日は同社の三代目である堤社長を大西結花さんが訪問し、お話を伺った。
金髪のバンドマンが
建設業界へ
──はじめに御社の沿革からお聞かせいただけますか。
創業者である及川社長が鍛冶屋としてスタートさせたのが始まりだそうで、1962年に会社が設立されました。その後を創業者の娘さんのご主人である先代が引き継ぎ、2012年に私が三代目に就任したのです。
──堤社長はどのようなご縁でこちらに入られたのでしょう。
私は高校を卒業して一般企業に就職したのですが、3年ほど経ったころにバンド活動をやりたいという理由で退職したんですよ。そこからは髪を伸ばして金髪にし、バンド中心の毎日でした。音楽では食べていけないので、アルバイトをしていたのですが、近所に『及川鉄工』の常務を務めていた人がいて、その人に誘われて1988年にこちらに入社したんです。当時はまだ22歳ぐらいで、バンド活動の傍ら、仕事をするという感覚でしたね。
──それからずっとこちらでお勤めをされて、社長にまでなられたのですね。
ええ。とは言え、最初はこんな仕事はしたくないと思っていたんですよ。当社が手掛けているのはデッキプレート工事と言って、商業施設やビルなどの現場で組み上がった鉄骨に鋼製床板を敷き込んでいく仕事なんですね。もともと肉体労働が嫌いだったので当初は不満に思っていたのですが、良い人たちに恵まれて、気持ちが変わっていきました。さらに仕事にもやり甲斐を見出せるようになり、やがて自分の天職だと思えるまでになったんです。それから、亡くなった母親から「仕事だけは誰よりも頑張りなさい」と教わったことも大きかったですね。バンドをやっていたとはいえ、一生懸命仕事をしたんです。その中で、同じ会社の人から「いつも頑張っている」と評価していただけたんですよ。それが嬉しくて、いつしかバンドよりも仕事の方が楽しくなっていきましたね。そのうち役職をいただけるようになり、現場の仕上がりを褒めてもらえるようになって、段々とこの世界にはまっていったんです。
社長に就任し、
業界の地位向上のため奮闘中
──このお仕事の魅力とは?
骨組みだけのところにデッキプレートを一枚一枚敷き並べていくと、最初はなかった平面が現れてくるんですね。そこに光が当たると、驚くほど美しくて感動するんですよ。
──魅力的なお仕事ですね。社長になるまでには色々な出会いがあったのでは?
ええ。入社したばかりの時は小松部長という方に随分とお世話になりました。若造の私をいつも気遣って下さり、よく飲みにも連れて行っていただきましたね。この方がいたから辞めずに続けてこられたのですが、若くして他界されてしまったんです。また、初代や先代にもお世話になりました。初代は私が入社した時、会長職にあったので、たまに現場に来られる程度でしたが、可愛がっていただきましたよ。先代は、事業を引き継いだ時の経営状態が悪かったため、私財を投げ売り、自分の給料を取らないで立て直しに力を尽くした人。仕事のことよりも礼儀礼節に厳しく、随分と怒られましたが、先代からは本当にたくさんのことを教わりました。
──社長に就任されて4年ということですが、何か新たに取り組まれたことは?
建設業の許可区分は、土木工事業や左官工事業、電気工事業など、28の業種に分けられていますが、その中でデッキプレート工事はなく、とび・土工・コンクリート工事の中に含まれているんですね。デッキプレート工事は幅広く認知された仕事ではありませんが、とても重要な仕事ですし、業界の地位向上のためにも、1つの区分としてデッキプレート工事を認めてもらえるようにと活動を始めました。この区分は1971年からほぼ変わっていないので、これを変えるのは至難の業だと思いますが、様々な人たちとタッグを組んで取り組んでいます。
──高い壁かもしれませんが、乗り越えるための大きな一歩になると良いですね。
はい。従業員はもちろん、この仕事に携わる人たちが誇りを持ち、家族や友人にも自信を持って話せる業界にしていきたいですからね。なかなか若い人が来てくれない分野ではありますが、大学にも出向いて新卒採用も進めていき、業界を盛り上げていきたいと思っています。
覚悟を決めて事業を引き継ぐ
先代の後任を務める予定だった小松部長が若くして他界し、新たな後継者候補として白羽の矢が立ったのが堤社長だった。先代は早くからその旨を社長に伝えていたが、社長は本気で考えることはなかったという。しかし2009年から2010年にかけて急激に景気が悪くなり、その影響で業績が悪化。先代は社長に、「継ぐ気がないなら会社を畳む」という決断を伝えた。しかし、お客様も従業員もいる状況。それに会社がなくなれば自分自身も職を失う。それで、社長は会社を引き継ぐことを決心したという。その時に先代から言われたのは、「社長になるには、自分の財産を全て失う覚悟が必要」だということ。交代する時にはかなりの赤字を抱えていたが、その覚悟で以て経営に臨んだ。その後、政権交代を境に公共事業・民間工事が増え、この4~5年で売上げは伸びる一方だ。その中で、事業の立て直しにも成功した社長。今は逆に仕事が多く人手が足りない状況だが、浮き足立つことなく慎重に経営を進めている。
「現在、堤社長を含めて13名でお仕事をされているという『及川鉄工』さん。初代が立ち上げられた会社が危機を迎えた時には先代が立て直し、再び危機を迎えた時には堤社長が業績を回復させられました。良い時と悪い時が5年周期で訪れるそうですが、その中で、バトンタッチもされながら乗り越えてこられたとのこと。それが今日の強固な基盤につながっているのでしょうね」(大西 結花さん・談)
名 称 |
及川鉄工 株式会社 |
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住 所 |
北海道札幌市白石区川下641番地 |
代表者名 |
代表取締役社長 堤 清丈 |
U R L |
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掲載誌 |
月刊経営情報誌『センチュリー(CENTURY)』 2016年2月号 |
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