2023年02月13日更新
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子眉嶺神社 対談取材記事

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長きにわたり地域を見守り続け
多くの伝説を今に伝える神社

 こびみね

子眉嶺神社

宮司 目黒 秀明

【異業種ネット】月刊経営情報誌『現代画報』特別取材企画 掲載記事─略歴

【足跡】 幼いころから宮司である父親の背中を見て育ち、自然と同じ道を歩むことに。父親が他界したことを受け、町役場に公務員として勤務しつつ、宮司職を兼務。由緒正しき神社を守り継ぐ者としての使命感を抱き、現在はその心を後継者となるご子息へと伝えている。


1300年以上の歴史を有する『子眉嶺神社』。地元のみならず、近隣地域の人々にも親しまれ続ける同社は、何代にもわたって大切に守り継がれてきたのだ。俳優の村野武範氏が由緒正しい同社を訪問。神社にまつわる伝説をはじめ、社内の七不思議など、興味深いお話を目黒宮司に伺った。

【異業種ネット】月刊経営情報誌『現代画報』特別取材企画 掲載記事─対談

村野 『子眉嶺神社』さんはとても由緒正しい神社だと伺っています。創建されたのは、いつなのですか。

目黒 702年(大宝2年)に仮宮がつくられ、907年(延喜7年)に創建されたと伝えられており、由緒については都の姫の悲恋伝説の他、3つほどの説があります。祭神は伊勢の外宮に祀られている「豊受比賣之命」で、五穀の豊穣、産業安全、子どもの悪疫除、病馬平癒の神と言われ、中でも馬術馬業には高い御神徳があるのです。ちなみに、全国各地で行われる「相善祀り」は牛馬の安全を祈願するもので、当社の別名『奥之相善宮』に由来します。また、当社は「延喜式」の中の神名帳に載せられている式内社でもあるのですよ。全国の神社の総数は3132座の神名、2861社で陸奥国では100座、その中で名神大社は15座、相馬市と新地町では当社だけなのです。

村野 全国的にも長き歴史を有する神社の一つなのですね。目黒宮司はお父様から現職を受け継がれたのですか。

目黒 そうですね。早くに父を亡くし、すぐに跡を継ぎましたから、宮司になってもう40数年が経ちます。町役場で公務員としても勤務を続け、二足の草鞋を履く生活を30年ほどしていたのです。ここは小さな農村地区で人口もそんなに多くありませんから、神社としての所得だけでは運営を維持していくのは難しかったのです。それにこの地域には農家の方が多いために朝がとても早く、しかも「神事は朝の方が御利益がある」と祈祷なども早い時間に来られます。ですから、その間は毎日出勤前にお祈りするという大変な生活だったのですよ。

村野 それは想像を超えるご苦労だと思います。いつから宮司職に専念されるようになったのでしょう?

目黒 1992年に町役場を退職しました。99年に当社を改築することになり、その準備に専念するために定年よりも数年早く、神社運営に一本化したのです。それでも、境内の整備やお祭りなどの行事ごとなど、忙しい日々は続きましたね。とは言え、氏子さんには祭りなどの度に多大なご協力をいただけましたし、神社運営を続けてこられたのも皆さんのお陰なんです。現在、氏子さんは約800件ほどいらっしゃいますね。

村野 非常にお忙しくされていますし、年間行事は数多くあるのでしょうね。

目黒 初詣にはここ新地町だけでなく近隣地域からも足を運ばれる人が多く、その数は約3千人にもなります。1月には「元旦祭」と「どんと祭」、4月には「春祭」、5~6月の田植えの時期は一旦落ち着くものの、7月ごろからはまた「秋祭」の準備と、大忙しですね。

村野 御社には数々の伝説も残されていると伺いましたが……。

目黒 当社には七不思議として「南天の桜」「北斗の松」「七葉の欄」「八房の梅」「片葉のよし」「芽白の笹」「九曜のかしわ」があります。その他にも、先に紹介した都の姫の悲恋伝説に縁のある「鏡ヶ池」はパワースポットにもなっているのですよ。その池に向かって祈願すると、願いが叶うと言われているのです。

村野 それなら今後地元のみならず、多方面から参拝に訪れる方が増える可能性がありますね。ところで、神社を守り継ぐ跡取りの方は、いらっしゃるのですか。

目黒 ええ。現在福祉関係の職に就いている息子がいずれ後を継いでくれることになっており、今でも忙しい時は手伝ってくれているのです。これだけの歴史を有する神社を譲り受けるということは大きな重責を背負うことにもなります。それでも、この神社に生を受けたことに誇りを持ってくれているようで、これから訪れる試練を乗り越えてしっかりと守り継いでいくという覚悟を持ってくれていますし、頼もしく思いますね。

村野 社寺においては近年、後継者不足に悩まれているところが多い。そんな中で、ただ継いでくれるだけでなく、安心して任せられる方がいるというのはとても幸せなことですね。きっと宮司の背中がご子息の心を動かしたのでしょう。

目黒 息子だけでなく、娘も手を貸してくれているのですよ。神社には裏方として支えてくれる女性の存在が欠かせませんから、非常に助かっています。娘も幼いころから神社運営の大変さを目にしており、何か力になりたいと資格まで取得し、たまに私について勉強にも励んでくれています。

村野 『子眉嶺神社』さんの将来は安泰ですね。最後に、今後に向けての抱負を。

目黒 健康でさえあれば宮司はいつまでも続けられますし、神社運営に専念できている今、改めて長く神事に携わっていこうと意気込みを強めています。これからも誠心誠意の心を大切にしながら、氏子さん、そして地域の方々と真摯に向き合っていきたいですね。

村野 これからも末永く地域を見守り続けていってください。

【異業種ネット】月刊経営情報誌『現代画報』特別取材企画 掲載記事─取材記事写真

「神社運営に専念できる今、誠心誠意の気持ちを大切に氏子さん、そして地域の方々と真摯に向き合っていきたいです」(宮司 目黒 秀明)

都の姫の悲恋にまつわる伝説

▼『子眉嶺神社』がある福島県・新地町には古から伝わる伝説が幾つもある。その中で、都の姫にまつわる口碑伝説は同社と深い縁がある。

▼その姫はある時、大臣に嫁ぐことになった。しかしある晩、姫が大事にしていた今帝駒という馬の夢を見たため、身籠もってしまうことに。それに怒った大臣は馬を斬りにいったが、逆に食い殺されてしまう。そのことで罪を負った姫は、伊勢・二見ヶ浦から空舟で流され、辿り着いたのが駒ヶ嶺。姫はここで土地の豪族・糠塚権太夫に助けられて子を出産する。しかし、その顔はあまりに馬に似ていたため、権太夫は姫に見せるのを躊躇。それでも姫は見たがるので、迷った末に姫を池の上にある丘に立たせ、水面に映して見せることに。その顔を見た姫の驚きと嘆きはあまりに大きく、そのまま床について亡くなってしまったと言われている。

▼その池は「鏡ヶ池」と呼ばれ、今でも同社内に御神水として残っており、昔からどれだけ日照りが続こうが決して枯れることはなかったとか。それは今でも当社、そしてこの地域に語り継がれている伝説の一つである。

対談を終えて

「目黒宮司は30年もの長きにわたり、宮司と公務員の二足の草鞋を履いておられたと伺いましたが、実際にその境遇にないと分からない苦労がおありだったと思います。どちらも途中で投げ出さず、職務を全うしてきた宮司はとても意志の強い方だという印象を受けました。それも、長き歴史を有する神社を守り継いでいかなければならないという使命感をお持ちだからだと思います。宮司の高き志は脈脈と受け継がれていくことでしょう」(村野 武範さん・談)

【異業種ネット】月刊経営情報誌『現代画報』特別取材企画 掲載記事─会社概要

名  称

子眉嶺神社

住  所

福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺字大作44

代表者名

宮司 目黒 秀明

掲載誌

現代画報  2011年4月号

本記事の内容は、月刊経営情報誌『現代画報』の取材に基づいています。本記事及び掲載企業に関する紹介記事の著作権は国際通信社グループに帰属し、記事、画像等の無断転載を固くお断りします。