2023年02月13日更新
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株式会社 内海工業 対談取材記事

名刺
動画

優れた技術と若いパワーを結集し
災害復興と町づくりに貢献

株式会社 内海工業

代表取締役 内海 誠

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─略歴

■支えてくれた人たちに感謝し、その思いを糧に歩み続ける

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─人ページ写真

「周りの人に恵まれ、皆様に支えてもらったからこそ今があるんです」と語る内海社長。

両親の離婚により東京から父親の実家がある気仙沼に移ったのは5歳の時で、母親を恋しく思うこともあった。だが祖母やおば、友人やその家族がいつも側にいて支えてくれたという。

また、勤めを辞めて将来のことを考えていた時、独立のきっかけを与えてくれた人、会社設立後の厳しい状況を応援してくれた人など、社長の周りにはいつも温かい人の輪があった。

きっと、どんな時も誠実に、謙虚に、懸命に歩む社長の姿が多くの人の心を惹きつけたのだろう。これからも周囲の人々への感謝の念を忘れず、恩返しの意味も込めて前進を続ける構えだ。


土木・解体工事を主体に活躍する『内海工業』は、2005年の創業。新潟県中越地震の現場で復旧作業に携わり築いた実績をもとにスタートした。2008年に株式改組し、今年4月には新たに仙台営業所も開所した同社の根底にあるのは、奢ることなく謙虚に努力を続ける内海社長の経営姿勢に他ならない。

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─対談

船乗りの仕事で力を得て
建設業で自信を得る

渡嘉敷 内海社長は、こちら気仙沼のご出身ですか。

内海 東京の中野で生まれ、5歳の時に父親の実家があるこちらに移ってきました。それからは祖父母に育てられたようなものですね。祖父が大工を務めていたので、幼いころは大工になりたいと周囲に話していたようです。

渡嘉敷 学業を終えられてから、大工の道には入られなかったのですか。

内海 祖父母に苦労をかけたくないので早く働いて恩返ししようと思い、中学を卒業してからすぐに遠洋漁業の船に乗りました。給料が良かったことと、おじが漁師だったことから選んだ仕事でしたが、1年間どこにも寄港せずにずっと船の上で生活を送りましてね。20人ほどの乗組員が狭い船で顔を突き合わせて暮らしていくものですからストレスが大きく、その1航海だけで辞めさせてもらいました。

渡嘉敷 1年間の船乗り修業で得たものは何かありましたか。

内海 何にでも挑み、乗り越える力ですね。努力により何でもできるという思いを身につけることができました。

渡嘉敷 若い時分に素晴らしい経験をされてきたのですね。船を降りてからは、どんな仕事に就かれたのでしょう。

内海 今と同じ建設業界に入りました。最初はアルバイトからスタートしたのですが、まだ18歳にも満たない年齢でしたから資格も取れず、車の免許もありません。ですから現場でできることは掃除をしたり、交通誘導をするぐらい。そのころから早く資格を取りたい、一人前になりたいと思っていましたね。それで資金を貯めて最初に車の免許を、次に重機の免許を取り、徐々に携われる仕事の幅を広げていきました。

渡嘉敷 そちらでは何年ぐらいお勤めをされたのですか。

内海 13年ぐらいですね。一通り仕事を覚えて結果も残し、自分でも「やり切った」という感覚があったんです。それで会社を辞め、しばらく家で将来について考えていました。すると、その間に新潟県中越地震が起こったのです。

渡嘉敷 今から8年ほど前ですね。

内海 はい。地震発生後、前職でお付き合いのあった人から電話があり、人を何人か集めて復旧工事を手伝いに来てほしいと言われまして。それですぐに若い者を4~5人集めて災害現場に行き、そこから4年ほどはずっと現地で復興に携わりました。滞在中徐々に人が増えて15人ほどになったので一軒家を借りて共同生活をするようになり、早朝から夜遅くまで仕事漬けの毎日でしたね。

渡嘉敷 新潟から戻ってこられてから、会社を立ち上げられたのですか。

内海 そうです。県や市の仕事を請けるために『内海工業』を立ち上げました。それが今から4年前のことです。

今やるべきことを
一つひとつクリアしていきたい

渡嘉敷 スタートされて、滑り出しは順調でしたか。

内海 いいえ。当初は大変でしたよ。と言うのも気仙沼は同業者が多いので、その中に入っていくのは並大抵のことじゃないんです。それで最初は小さな仕事から取り組み、コツコツと実績を積み上げてきました。立ち上げてから3カ月後に取引先の業績が悪化してお金を回収できないというピンチもありましたが、ずっと私共の仕事を見てくれていた新潟の業者さんから仕事をいただいたり、周囲の皆様の支えがあって今に至っています。

渡嘉敷 人とのつながりを大切にされていたことが良い結果に結びついたんですね。御社の強みはどんなところに?

内海 スタッフが若いことですね。平均年齢は35歳ぐらいですから、同業他社と比べるとスピード感が違います! 若いということで時には無鉄砲なこともしますが、私としては事故のない限りそれも多目に見ているんですよ。

渡嘉敷 スタッフの方々への温かい目線が感じられます。皆さんによくおっしゃることを教えて下さい。

内海 「人に褒められることをやってこい」、そして「最後に“この会社に頼んで良かった”と言ってもらえる仕事をしよう」ということですね。また、皆をまとめていくためにミーティングで意思疎通を図る他、仕事を離れて一緒にお酒を飲んだり食事をしたりすることもあります。ただ、お酒を飲みながらだとついつい熱くなって自分の思いばかり語ってしまうので会話にならないのですが(笑)。

渡嘉敷 それだけ熱意を持ってお仕事をされているということでしょう。では最後に今後の展望をお聞かせ下さい。

内海 高望みすることなく、今自分たちがやるべきことを一つひとつ達成していければと思っています。これからも品質、値段、納期全てにおいて当社にしか提供できない商品を皆で生み出す所存です。

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─取材記事写真

「若さを活かしたスピード感のある工事が当社最大の強みです!」(代表取締役 内海 誠)

中越地震・東日本大震災の復興に尽力

▼2004年10月、マグニチュード6.8の大地震が、新潟県中越地方を襲った。県内各地で家屋の倒壊や山崩れ、土砂崩れが起こり、鉄道や道路などを分断。その中で災害復旧に携わったことが、『内海工業』の原点となった。数人の若手を集めて現場に駆け付けた内海社長は、その惨状を目の当たりにして愕然とするばかりだったという。当時、復旧には5年を要するだろうと言われていたが、社長同様、全国各地から訪れた建設業者、ボランティアの尽力で、4年でほぼ完了。その間、ずっと現場で寝泊まりしながら身を粉にして工事を続けてきた社長とスタッフはようやく現地を後にした。

▼地元に戻ってきて会社を設立したのは2008年。だが、競合の多い気仙沼でコツコツと地盤を築いていた矢先の2011年、東日本大震災が発生した。会社もスタッフも無事だったものの、大切な機材や車、重機を津波で流失。それでも休む間もなく、地震の翌日より瓦礫の撤去に携わった。「新潟の時もそうでしたが、津波の被害もひどいもので、言葉もありませんでした。けれども、悲しんでばかりもいられない。自分たちが先頭に立って復興を目指していかなければと思い、前に前にと進んできました」と話す。過去を振り返らず、前進あるのみ、がモットーだという社長らしい。「震災前と同じ状態には戻らなくても、一刻も早く日常を取り戻せるようにしたい」と熱く語り、今後も地元の復興に全力を尽くしていく考えだ。

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─取材記事写真

対談を終えて

「「できると思えば何でもできる」という信念を持ち、そんな人たちが集まる企業を目指しているという内海社長。何ごとにも前向きに取り組み、諦めないという姿勢が、良いお仕事につながっているのでしょうね。」(渡嘉敷 勝男さん・談)

【異業種ネット】月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ(LEADER’S EYE)』特別取材企画 掲載記事─会社概要

名  称

株式会社 内海工業

住  所

宮城県気仙沼市赤岩舘森16-7

代表者名

代表取締役 内海 誠

掲載誌

リーダーズ・アイ  2012年7月号

本記事の内容は、月刊経営情報誌『リーダーズ・アイ』の取材に基づいています。本記事及び掲載企業に関する紹介記事の著作権は国際通信社グループに帰属し、記事、画像等の無断転載を固くお断りします。