三ツ木 「ヤマダ」は長い歴史をお持ちだと伺っています。
吉村 はい、私の祖父が戦時中に「山田商店」という屋号で事業を興したのがそもそもの始まりです。当初は歯科医院で排出される汚泥を収集して、そこから金属を抽出する仕事をしていたそうです。現在の「ヤマダ」の設立は1974年で、写真廃液から銀を抽出する業務及び廃液処理を主としています。
三ツ木 吉村社長は早くから後継の意志をお持ちだったのですか?
吉村 いえ、実は私は元々家業に入ることを拒んでいたんですよ。というのも、私はずっと新潟に住んでいたので、地元を離れてみたいという思いがあったんです。だから、東京の大学に進学し、都市銀行に就職しました。そちらで10年ほど勤務していましたが、父が他界したのを機に退職し、帰郷。ちょうど銀行の合併が相次ぎ、組織改革が進められていた時期で、私自身も「新しいスタートを切る良いタイミングかもしれない」と思ったんです。
三ツ木 畑違いの業界で働いておられたのですね。家業とは言え、異業種に入られた当初は戸惑いもあったのでは?
吉村 そうですね、まずは仕事を覚えることが必要ですから、入社1年目はトラックに乗って、産業廃棄物の収集運搬に専念しました。そして、次の1年間は、集まった産業廃棄物の処理工程について学んだんです。そうして、約2年の現場経験を積んだ私に突然転機が訪れました。事情があって、先代が急に代表職を辞任されることになったんです。そして、私が後を継ぐことになりました。
三ツ木 わずか2年で代表職に就かれたのですか?
吉村 そうです。実は先代は、私とは血縁関係のない方でした。父から直接引き継ぐことは叶いませんでしたが、祖父、そして父が守り抜いてきた「ヤマダ」を守りたい。その一心で今日まで歩んできました。就任当時、当社の従業員のほとんどが私と同世代か年下。社内により活気を出すために私は「面白おかしく」をモットーとして、楽しく働く姿勢を皆に示しました。その思いが皆に伝わったからこそ、苦しい時も踏ん張ることができたのだと思います。
三ツ木 なるほど。社内の良好な雰囲気は良質な仕事の提供につながるでしょう。では、最後に今後の展望を。
吉村 デジタルカメラが普及するようになって、写真廃液を処理する仕事は減少傾向にあります。そこで、2005年からは別の工場廃液から金属を抽出する仕事を新たに始めました。スタートから3年経って、徐々に軌道に乗りつつあるのを実感しています。今後は、そちらに重点を移していくつもりです。今までに取得してきた許認可や資格を活かして、時代のニーズに添って展開していきたい。これからも全力で仕事に臨みます。