石橋 まずは代表の歩みから。
木下 昭和24年に三重県で生まれ、中学を卒業した後に一旦大阪に勤めに出て、3年ほどそちらで働きました。しかし長男だったことから地元に戻ることになり、その後建築業界に入って大工としてのスタートを切ったのです。
石橋 建築業界の修業時代は厳しいとよく聞きますが、代表の場合はいかがでしたか?
木下 確かに厳しかったですが、良い親方に恵まれたお陰で有意義な修業時代を過ごすことができました。私が修業に入った当時、親方はすでに60歳ぐらいで「長い期間をかけてじっくり教えることはできないから、早く覚えるように」と言われたのです。親方のその期待に応えられるように、私もがむしゃらに修業に励み、通常ならば10年かけるところを4年ほどの間で技術を磨かせてもらうことができました。また技術以上に職人としての気構えなど、貴重なことを多く学ぶことができ、職人として歩む上での基礎を築くことができました。そして親方が引退することになり、それをきっかけに独立することにしたのです。
石橋 ということは、独立時もお若かったのでは?
木下 はい。ただこの業界は10年以上修業を積んだ職人でないと、たとえ技術があっても一人前として認めてもらえない風潮があります。ですからなかなか直接ご依頼を戴くことができず、その後も人の下について作業を行うなど、さらなる研鑽に励みました。そして30歳ぐらいのときにチャンスが巡ってきて、初めて家造りを丸ごと任せて頂けることになったのです。そして無事完成した家を多くの方が見て下さり、一人前だと腕を認めてもらえるようになりました。
石橋 それからは順調にご依頼を戴けるようになったのですか?
木下 そうですね。1軒1軒自分自身の持てる力を全て注ぎ込んできましたので、それが評価されて、その後もコンスタントに注文を戴けるようになりました。ところがそんな矢先であった平成9年に突然ガンの告知を受けたのです。そのときに自分の人生を振り返ってみたところ「これまで世の中に何かを残すことができただろうか」と疑問を抱くようになり、「これからは自分がこの世に生を受けた証を残していきたい」と強く思うようになりました。そしてこの長瀬という地とそこに住まう人々に貢献できるような新たな取り組みを始めたのです。
石橋 今はお元気そうで何よりです。具体的にはどのような取り組みをしてこられたのでしょう?
木下 ある設計士から「一緒に面白い家を建ててみないか」というお誘いを戴き、「平成の民家」という伝統工法にこだわった木造住宅を手掛けるようになりました。その当時は阪神・淡路大震災が起こったころで、耐震・免震の重要性が叫ばれており、これからは地震に強い日本家屋を造らなければならないとの考えに基づいたものです。そして地震に強いだけではなく、シックハウス症候群の恐れがある新建材は一切使用しない、人間にも自然環境にもとても優しい工法を採用することにしました。
石橋 日本家屋は長い歴史の中で培われてきた技術によるものですから、日本の風土にも合っているでしょうしね。
木下 ええ。そういった工法を軸に、設計士による現代風のデザインを採り入れた家造りをしているのです。さらにそれぞれの家に合った、家具やオリジナル木工品も手掛けているのですよ。
石橋 では家造りを行う上で、大切にしておられることとは?
木下 これまで通り一つひとつの住まいに対して全力を尽くすことはもちろん、その過程で自分自身が家造りを楽しむ気持ちを大切にしています。楽しんで建てた家というのは、その気持ちが施主様にも伝わり、喜びを共有することができるのですよ。そして家自体もその真心を感じとるのか、何年でも長く生き続けるのです。今でも10年以上前に建てた家の施主様とお付き合いがありますが、「まだまだしっかりしている」「だんだん良い色になってきた」と言って頂いています。そのような言葉を聞くと、職人冥利に尽きますね。
石橋 そういった施主様の一言が代表にとって次へと向かう原動力となっているのでしょうね。
木下 はい。施主様に喜んで頂きたいという気持ちによって、次から次へと新たなアイデアが湧いてくるのですよ。現在は2人の息子と共に現場に立っていますが、彼らにも楽しむ姿勢を大切にしなさいと言っています。幸い、自主的にお客様本位の仕事を行ってくれていますので、今後の成長に大きな期待を寄せているのですよ。
石橋 後継者不足に悩まされている建築業界において、頼もしい後継者がいらっしゃるのは嬉しいですね。最後になりましたが、今後に向けての展望を。
木下 伝統工法による日本家屋を、息子をはじめとした後進にしっかりと伝承していきたいと思います。そしてこれからも楽しさを味わいながら、生きてきた足跡をしっかりと残せるような家造りをしていきたいです。 |