多難を乗り越え受け継がれる
伝統の歴史と技術
倉田 御社のご創業はいつごろですか。
藤澤 昭和33年に父が創業しました。もともと父は大阪で木工関係の仕事をしていたそうなのですが、私が1歳ぐらいのときに、徳島で職人を募っているということで移ってきたそうです。それでしばらく勤めていたところ、あるお得意様から「応援するから、独立してみないか」と声をかけられ、当社を設立。当初はそのお客様1社だけを頼りに画筆軸を専門的に作っていました。その後、お客様は徐々に増えていき、事業内容も画筆軸から化粧軸へと変化していきましたが、そのお客様とは今もお付き合いをさせて頂いているんですよ。現在の業務は化粧軸がメインですが、そのお客様だけのために画筆軸も作り続けています。
倉田 お客様から後押しされるとは、お父様は相当腕のたつ職人さんだったのでしょうね。
藤澤 ええ。父の作り上げる製品は、各方面から信頼を寄せられていましたね。しかし、だからといって全てが順風満帆だったわけではないのです。私が自立するまでの間に、山崩れや火災、水害によって大きな被害を何度も被りましてね。その都度、再建しなければならず資金繰りには苦労していたようです。そんな姿を見て育ちましたので、私も自然と家業に入る道を選びました。
倉田 一口に化粧軸と言っても、色々な種類があるのでしょうね。どのぐらいの数にのぼるのでしょう。
藤澤 軸の長い、短い、太い、細い、それに形状や色がそれぞれありますので、種類数は数えきれませんね。
倉田 プロのメイクアップアーティストは化粧筆にもこだわると言いますから、繊細な技が必要となってくるのではありませんか。
藤澤 技はもちろん、緻密な作業が必要となります。そのせいか、全国でも同業の会社は数社ほどしかありませんね。中国での生産も増えましたが、やはりこだわられる方は当社のものを選んで下さいます。
倉田 材料はプラスチックではなく天然の木を?
藤澤 はい。創業当時は徳島県南部に分布している椎の木を用いていましたが、現在は良質な輸入材を使用しています。昔は木肌のまま出荷していたのですが、あるとき付加価値を付けるために軸に色を付けてみたところ、これがヒットしまして。今では色が付いているのが常識的になっていますが、現在に至るまでには色々な試行錯誤があったんですよ。そんな過渡期の間も、見限ることなくずっと当社の製品を愛用して下さるお客様がいてくれました。そうして支えて下さったお客様の存在があったからこそ、当社もここまで育ってくることができたのだと感謝しています。
倉田 順調な経営を続けてこられた要因は、周囲の方々との絆だったのですね。
藤澤 ええ。無事に今日を迎えられているのも、両親が築き上げてくれた礎と、お客様をはじめ周囲の方々に恵まれたからだと思います。その上で、私どものやるべきことはただ一つ、品質を高めていくこと。お客様のどんなご要望にも絶対に「無理です」とは言わず、必ずお応えしてきました。
倉田 しかし、中には納期面などで無理な注文もあるのでは?
藤澤 私は見栄っ張りというか、負けず嫌いな性格でしてね(笑)。納期を明日と言われようとも、「できない」と言うのが嫌なんですよ。やる前から諦めるなんて、格好が悪いでしょう。方言で「けたい」と言うのですが、そんなけたいの悪いことはできません。それが私の唯一にして最大のポリシーですね。
倉田 職人の誇り高さが窺えます。
藤澤 とは言え、私自身、胸をはって自信を持てるようになったのはつい最近なんです。これまでいつも「これでいいのか、もっと上手くできるのではないか」と自問自答する毎日でした。しかし、お客様が私どもの作った商品を手にとって喜んでくれている姿を見ていると、当社にしかできない仕事があるのだと改めて実感することが増えたのです。
倉田 社員の皆さんも、同じ気持ちを抱いていることでしょう。
藤澤 自分たちが心を込めて丁寧に作ったものが、ブランド商品となって世に出て行く。それは自分の子を送り出すのと同じような気持ちです。これから時代はどう変わっていくかは分かりませんが、私どもは変わらず丁寧な仕事を続けていくだけ。現在、私の子どもたちも一緒に働いてくれていますので、技術と同時に創業時から守られている伝統の精神も伝えていきたいと思っています。そして、当社の存在がなければ困るという方がいる限り、魂をこめたものづくりを続けていくつもりです。でなければ、「けたい」が悪いですからね。
倉田 本日はありがとうございました。

|